聴かない、贈らない場合と比べて180度変わる価値

聴くを贈る自分史「家族遺産」

自分史は「聴く」「贈る」要素を付加することで、5つの新しい価値を生みます。

01 ギフトとして家族が関わる事で
    「伝わる」自分史へ
02 ギフトとして複数人が携わる事で
    「自己の満足」から「皆の満足」へ
03 ギフトとしてもらったものだから
    贈られた側が人へ「拡散」(自慢)しやすい
04 ギフトとして"カタチ"あるものだから
    目的を持って「積極的な昔話」が出来る
05 ギフトとして"記念日"があるからこそ
    きちんと「期日」までに完成する

聴くを贈る自分史家族遺産

家族遺産プロジェクトが提案している「聴くを贈る自分史」の構成(例)

高齢者施設、高齢者住宅において、長寿のお祝いなどで、プロジェクトが提供しているギフトバージョンの贈る自分史(本文12頁の例)です。コーディネイター(ライター)により書かれる略歴は取材量によって1頁だけの場合、3、4頁に渡る場合といくつかパターンがありますが、概ね800〜1200文字の略歴、人生各年代のお写真+施設での活動写真計15枚前後、家族、施設からのお祝いメッセージ(それぞれ600文字程度)で構成されます。
本格的な自分史と比べると写真中心の絵本のような構成は、文字量、写真量をある程度限定することにより人生のダイジェスト版として内容が濃く、書く(聴く)側、読む側にとって手軽に導入出来るところを大きなメリットとしています。またプロジェクトでは何よりも傾聴の場、その「体験」に重きを置いております。

贈る自分史05-06p

 
表紙
オモテ面はタイトルと贈られる側のお名前、ウラ面は施設名、傾聴者など贈る側の情報を掲載。
卒業アルバム等と同じ上製本で保存性の高い材質を仕様としております。
施設提供版ではオリジナルのタイトル、カラーで制作させていただいております。

贈る自分史05-06p

本文01−02頁
(自分史)略歴で構成

贈る自分史05-06p

本文03−04頁
想い出の写真と(自分史)略歴で構成

贈る自分史05-06p

本文05−06頁
想い出の写真で構成

贈る自分史05-06p

本文07−08頁
想い出の写真で構成

贈る自分史05-06p

本文09−10頁
写真と家族からのお祝いメッセージで構成

贈る自分史05-06p

本文11−12頁
写真と施設からのお祝いメッセージで構成

※2頁・4頁/略歴(例文)

 元号、大正最後の年となる大正15年の4月23日、宮城県仙台市南石切町にて父・松下好隆、母・まつ代の長女として私は生まれる。功績ある陸軍歩兵第四連隊に所属していた父のおかげで生活に不自由がなかった。しかし父は忙しく戦地をまわっていたため家を守る母は大分苦労していたように思う。

 女学校時代は戦争一色に染まっていた。1年の時に学んだ英語は2年の時には敵国の言葉として科目から外され、午前の授業が終わると午後は竹槍を持ち国のために戦う術を学ぶという毎日であった。卒業後、19歳の私は女子挺身隊として、毎日片道1時間かけて苦竹造兵廠(現陸上自衛隊仙台駐屯地)へと薬きょうをつくりに通った。
 昭和20年7月20日の仙台空襲において、夜勤に出ていた私は爆撃機が落とす火種で赤々と燃え上がる市中心部を離れた場所から望み、心の底から深く震えた。幸いにも爆心地から程近い場所にあった家も家族も無事であったことは不幸中の幸いであった。

 終戦後、24年に千葉光男とお見合い結婚。夫の赴任で仙台より遠く離れた青森県三沢の航空基地内官舎での結婚生活が始まる。それから1年とたたない時に母が喉頭結核によりあっという間にこの世を去った。25年に長男・健一が、26年に長女・喜恵子が生まれるが、孫の顔を見せることが出来なかったのが残念である。三沢での生活は楽しかった。光男は休みとなれば毎週のようにあちらこちらへと私と子供達を連れ出し、様々なものを見、聞かせてくれた。29年に次女・美智子が生まれる。同年、出張で海を渡り北海道へと出向いた光男は帰らぬ人となった。戦後最大の海難事故と言われることになる青函連絡船洞爺丸の台風による転覆事故に巻き込まれたのだ。美智子誕生からわずか42日目の出来事である。

夫・光男が亡くなった後、働き手を失い、私と3人の子供達は追い出されるように三沢の地をあとにしなければならなかった。長男の嫁である私は一度夫の実家に戻るものの居場所がなく、元居た実家へと戻ることになる。国鉄から支給、補償されたのはわずか1,000日分の給料200万円のみであり、夫の死を悲しみ引きずっている暇など無かった。3人の子供達と生きていくためにも手に職をと、義母が携わっていた美容師の道へと飛び込む。
 30歳になっていた私は高校を卒業したばかりの19,20歳の子達のなかにひとり混じり、子育てをしながら三島学院美容科に通った。そんな忙しい生活をインターン含め2年続ける。32年7月、実家前の猫の額ほどの小さな土地に80万円をかけ自宅兼店舗を構える。お客が3人も入れば一杯一杯の小さな店ではあったが、構えてからすぐ町内の顔見知りが常連となり、あいにく競合する店もなくとりあえずの軌道に乗ることが出来た。
 3人の子供達を私立の高校まで卒業させてやることが出来、長女・喜恵子を21歳で早々と嫁がせることも出来た。48年には初孫が生まれ、50歳手前にしておばあちゃんとなる。次女・美智子の結婚を経て、計6人の孫達に囲まれ充実した毎日が過ぎていく。
 平成14年に店をたたむ。45年、働ききったという想いがあった。店を閉めた後に、ゲートボールを始めた、御詠歌を習い始めた。一時期遠ざかっていた書を書くことや、絵の展覧会を巡ることもふたたび始めたいと思っている。孫達が結婚し、ひ孫も小学校高学年となった。ひ孫次第では100歳になる前に玄孫とだってめぐり逢えそう。まだまだ、私の人生は忙しい。

※10頁/家族からのお祝いメッセージ(例文)

さすがのおばあちゃん 祖母の半生を振り返る
 祖母・ツヤ子の人生は、ドラマティックだ。夫を青函連絡船洞爺丸の事故で亡くし、30歳を過ぎて手に職をつけるための学生生活。美容室をたったひとりで切り盛りし、3人の子供達を女手一つで育て上げた。子供達の独り立ち後は悠々自適の生活を送っていたものの、老後の頼りにしていた長男が50歳そこそこで亡くなってしまう等、とても濃密な人生を送っているように思う。

 私は小さい頃から「おばあちゃん子」であった。父と喧嘩しては、歩いて1時間かかる祖母の家へと何度も駆け込んでは、いつでも笑顔で仲裁してくれる祖母を頼りにしていた。
 そんな心身ともに元気な祖母ですが、平成12年に長男(私の叔父)を亡くした際、棺の脇に佇む姿のあまりに小さい後ろ姿を今でも思い出します。どちらかといえば女性としては背の高い祖母はきっと憔悴しきってしまったのだと思うが、叔父が亡くなった事よりも、そんな祖母をみてひどく悲しかったのを鮮明に覚えています。
 ちょうどその後、私は地元仙台から離れて東京で暮らすこととなり、盆、正月と帰るたびに顔を出すようにしているが、さすがたくましい祖母は前述の人生の大変さ等微塵も感じさせず、元気を与えるつもりで訪れている私が、逆に元気にさせられて東京へとUターンしてくるといった有様です。

 これまで病気をほとんどしてこなかった祖母ですが、平成23年に不整脈を訴え、結果、ペースメーカーを埋め込むことになりました。一時期、健康に自信を無くし、電話をかけて様子を伺った際、一度だけ弱音を聞いたことがありましたが、さすがの祖母、その後はいつもの元気な様子です。女性の平均寿命となった今もまだまだ元気、私もいい歳になりましたが、まだまだ頼りにしていきたいと思っています!長生きしてね!これからもよろしくお願いします!

12頁/施設からのお祝いメッセージ(例文)

千葉ツヤ子様、米寿おめでとうございます。
 いつ居室にお邪魔してもきちんとお化粧され、凛としている姿に、同じ女性として、ハッと我に返り背筋がピンとなります。これからも私が見習うべきずっと素敵な千葉さまでいてください!
<担当ケアスタッフ・山口>

 長く接客業をやってこられただけあって、千葉さまのまわりにはいつも人が集まり、賑やかに笑顔があふれております。私の実家が千葉さまの長く住まわれた町の近くであることをお話したところ、すぐに名前を覚えてくださり、それからはすれ違う度にお声をかけていただきとても嬉しく思っております。これからも、健やかでいらっしゃいますよう、支援して参りますので、どうぞよろしくお願いいたします。
<ケアマネージャー・高橋>

 いつも笑顔で、働く私たちの日々の体調を気遣ってくださる千葉さまの優しさに、何度も励まされ、癒されております。早くに旦那さまが他界され、女手ひとつでずっとたくましく生きてこられた経験談は、人生の大先輩として私たちの道標となっております。いつまでもお元気でお過ごしいただけるようにお手伝いさせていただきます。これからも色々とお話をお聞かせください。
<ホーム長・瀧澤>

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